こんにちは、プロフィールを見にきてくださりありがとうございます。
自己肯定感・自己効力感を育む家族関係改善カウンセラーのSAKURAです。
育児に悩んでいる方、そしてご主人に八つ当たりしてしまう方のお悩み
夫婦のすれ違いで悩んでいる方、コミュニケーションが思うように取れずに孤独を感じている方
親との関係で苦しい思いをされている方が
カウンセリングを通じて辛い思いから解放されるお手伝いをいています。

私自身が機能不全家族で育ち、自分自身の結婚生活も離婚の危機を経験しました。
4人の子供を育てましたが、無意識のうちに子供たちにも重大な影響を与えてしまいました。
カウンセリング、心理学を通じて親に対する罪悪感、心の不自由さを手放し、家族を復活再生する事が出来ました。
家族だからといっていつも仲が良いわけでも上手くいくわけでもありません。
夫婦であっても、親子であっても、心の傷を負わせてしまう事、大きな傷を負わされて癒えないまま苦しんでしまう事があると思います。
そんな時は心の支えになるカウンセラーに頼る事で何かが変わるかもしれません。
□苦しい気持ちを思いのままに話せる
□気持ちに寄り添い共感する
□否定したり自分の意見を押し付ける事なく安心して話をしたり質問できる環境を提供する
これらの事を大切にカウンセリングを行っています。
夫婦関係、親子関係を復活再生させて、笑顔を取り戻しませんか?
プロフィール
ギクシャクした両親の間で
不安を感じていた幼少期

父は優しい人でした。そんな父を母は悪く言っていました。
覚えているのは、父は田舎の農村出身で学がない。お人よしで人に騙されやすい。はっきりしない。
父自体を悪く言うと同時に、父方の祖母、叔父叔母の事も、文化的じゃない、田舎者だとバカにするようなこと言っていました。
小学2年生の頃、父が経営していた会社が経営難に陥っていました。母は子供の前でも父を非難し、激しく問い詰めるような事を繰り返し言っていたのを今でも覚えています。
母の父への態度は悪化し、ひどいことお言っていたのを覚えています。当時の私は、それがショックというより日常でした。母も辛かったのだという事は、大人になった今は理解できます。

ある日母から「一緒に死んで欲しい」と言われたことでとてもショックをうけたのは、今でも忘れられません。
母は母親としては、内面が幼くその時に感じた事をそのまま口に出してしまうひとでした。
幼かった私は、常に母の言葉に知らず知らずのうちに傷ついていたのかもしれませんが、まだ自分ではそのことと
小学校3年生だった私は必死に泣きじゃくりながら、絶対に嫌だと訴え、まだ幼い妹にも必死に訴えかけて、その勢いに妹も泣き出し、二人で泣き叫びながら母に抵抗しました。
母が実際に親子心中をどこまで現実的に考えていたのかはわかりませんが、車の排気口からガスを引き込めば苦しくないから、と言っていた事を今でも覚えています。
母からは、その後何度か死のうとしたけれどうまくいかなかったということを聞かされました。
その頃から、父は頼れない存在だから、私が母を守らなければならない、という思いを持つようになりました。
母の支えになりたかった小学生時代

小3の時に父の会社は倒産し、父の実家のある大分県に逃避行。
親戚のお世話になりながら、両親は仕事を見つけひっそり暮らし始めた。
借金の関係で住民票の移動がままならないという事情で、しばらくの間小学校には通えませんでしたが、やっと地元にの小学校転入したものの、数か月休んでいたせいで勉強についてゆけず、やる気も起きませんでした。
両親の不仲や急激な環境の変化の為、学校にはなじめず、厳しい担任の先生にもついてゆけず、
「どうして私はみんなみたいに楽しくないんだろう。知らない人ばかりで言葉も違うし」
友達もできず孤独な毎日でした

母に何かを相談するということはできませんでした。母も慣れない土地で苦労しているのを感じていて、
「お母さんには迷惑をかけたくない」
という思いからだったのかもしれません。
その頃からは父に対する気持ちの変化があり、能天気な父を受け入れられなくなり母の味方をするようになりました。小4になる頃、母は私と妹を連れて実家に帰り、両親は離婚。
「悲しい」
という気持ちは起きず、
「早く大人になってお母さんを助けたい」
みんなと違うという
劣等感に苦しんだ思春期

両親の離婚は私にとっては自然なものでした。むしろ父を責める母を見ないで済むことで背負っていた重荷を降ろす事が出来ました。
ところが、母は新しい職場での交友関係から、家に帰らない事があり、その頃住んでいた木造風呂無しのアパートの1階でまだ幼い妹を寝かしつけ、母が心配で不安で朝まで眠れない夜を過ごすという不安定な精神状態にありました。
そして、母子家庭という家庭環境は当時としては周りにあまり存在せず、
「クラスのみんなとは違う」
という劣等感を抱える事になったのです

「母は一生懸命に私たちの為に働いてくれている、だから感謝しなければならない」
という気持ちと、母に対する不満で常にジレンマを抱えていました。
両親の復縁で困惑した中学時代

母は自分の感情を隠さずに長女である私に率直に伝える人でした。私はその都度
「大人でいよう、母を受け止めよう」
と思っていました。
しかしそれは、自分の気持ちを無視して無いものにする事だったのです。
自分自身の感じた事よりも、正しいと思える事を優先する事を選んでいった結果、感情が鈍磨していきました。自分の感情がわからず、クラスメイトとの何気ない会話に自然に入ってゆけませんでした。
どこにいても目に見えない壁のようなものを感じていました。

ところがある時、母は一人で2人の子供を育てる事を止め、父と復縁して家族として生活する事を選んだのです。中2だった思春期の私は、父と再び同じ屋根の下で暮らす事に非常に抵抗感がありました
突然始まった家族4人の生活でしたが、母はまたしても父方の祖母と親戚の悪口を陰でいいはじめ、子供だった私はその影響を受けて育ちました。おばあちゃんは汚いという事を父に言った事で、普段穏やかな父からお茶碗を投げられた事にショックを受けた事は忘れられません。
友人はできるものの
その関係性を維持できず孤独を抱えた高校生活

高校生になる頃には家族4人の生活にもなじみ、平和な生活を送っていました。父も母もお互いを大切にしていました。
私自身は交友関係を築くことはできても、その関係を維持できない事への悩みを抱え、高校3年生で新しいクラスでは友人を作る事が出来ず孤独を感じていました。
「 今日もお弁当は1人ぼっちか」…
しかし受験というイベントに集中する事で、前向きにとらえ希望の短大に入学する事ができ、この事が、自信になり、自己効力感のようなものを味わった経験でした。
ちゃんとした家庭を作りたいという強い願望

母のような母親にはなるまい、ちゃんとした家庭を作る。という信念を基に23歳という若さで結婚しました。
早く家から出たかった。夫からの誠意の感じられる愛情表現に、この人と結婚して幸せになろうと決意し、程なくして専業主婦の道を選んだのです。
夫婦のコミュニケーション不足で
孤独を抱えた30代

25歳で長女を、27歳で次女を出産し幸せな結婚生活のはずが、家事育児にやり甲斐を感じる一方で社会との繋がりを求めて就職活動を始めます。そんな中、第三子を妊娠。
「えー妊娠。3人目の心の準備出来てない。どうしよう」
意図せぬ妊娠に、夫への不信感を抱きながら就職して社会復帰する道を断念。
4歳と2歳児の育児をしながらの妊婦生活は想像よりも厳しく、夫に強くあたる事も。悪阻を乗り越え、妊娠8か月になる頃に、夫婦仲が険悪に
「もう信じられない。」
子供たちを連れて実家に帰ると、母からは「こんなところにいないで、あなたは自分の家に帰って育児をしなさい。あなたの居るべき場所はここじゃない。しっかりしなさい。」と言われました。
「親を頼っちゃだめなんだ。私がしっかりしなきゃ。」
実母からの冷たい言葉に傷つき、私には選択権が無いという思い込みを抱えるようになります。それ以降は、子供たちの為に良い家庭を築く事を強く決意し、夫の機嫌を取る事に注力する日々を送る事になりました。
「夫の機嫌が悪くなるのは私のせいかも…」
この時母が私の辛い気持ちを受け止めていてくれたら、どんなに心強かったことだろうと思います。
「本当は夫に自分の気持ちをぶつけたい、でも出来ない」
「育児からも逃げ出してしまいたい。でも絶対にそれだけはしない」そんな堂々巡りの苦しい日々。

無事に第三子を出産し、新しい命の愛おしさに助けられながら結婚生活を継続することに。
3人の育児は想像以上に私にとっては負担が多く、おおらかで優しい母親にはなれない自分に失望することばかり。
「また自分を抑えられずに、子供を怒鳴ってしまった」
「なんで私は優しいママでいられないんだろう。ひどい母親だ」
子供たちを愛しているのに寄り添えず、母の愛情をめぐって喧嘩をしては泣き叫ぶ二人の娘を可愛いと思えず、イライラして怒鳴っては自己嫌悪する悪循の日々。

夫には不満を漏らさない、自分1人で育児を担って夫のストレスにならないようにすると決意しての生活。今振り返ると、自分の気持ちを抑え込み無視し続けて、自己肯定感を低下させ続けていました。
子供たちの将来のためになるように、と考えていた気持ちとは裏腹に、ストレスをため込んで子供たちに優しくなれずにその事で、益々自己肯定感を下げていました。
そんな時に第4子を妊娠。内心、もう無理だ、小さい子供たち3人を育てながら妊婦でいるのも、出産もこれ以上の育児負担も私には無理だと思いましたが、夫からの「できるだけ手伝うから生んで欲しい」との言葉を信じて出産を決意しました。
「私だけがこんなに頑張っているのに、ずるい」
「私はもっと頑張らなければ。子供たちにはしっかり勉強させなければ」

子供たちの将来の自立を強く願うあまり、完璧主義になり、子供の気持ちに寄り添えない母親になっていました。
PTA活動に積極的に関わる中で、家事、育児、PTA、夫への対応に追われ、終わりのない負のループに陥ります。完璧主義からくる過剰な負担により心身の不調をきたし、実母からの理解のない言葉にとらわれ続け苦しみました。

自身も離婚を望むようになりながらも本音を言えなくなり、PMSの悪化による感情の爆発を繰り返す中で、夫との関係は悪化の一途を辿ります。
子供たちの成長と共に夫といる必要性が薄れていくのを感じた40代後半
息子には上手く寄り添えず
眠れず自分を責め続けた日々

長女、次女は親の期待通りに進学し、第3子である長男も当たり前にそうなるものと信じていました。
しかし、母親である私も父親である夫も長男の気持ちに寄り添う事が出来ず、苦しんだ長男はとうとう家を出ていってしまいました。
「自分の意思ではないから」と入学したばかりの大学を辞め、アルバイト先の寮で暮らし始めたのでした。家に長男の居場所を作ってあげる事が出来なかった私は自分を責め、不眠症になり、夫を責めるようになりました。
夫への期待をどうしても手放せず
「私は今までなんのためにこんなに頑張ってきたんだろう?」すべてを否定されたような気持ち
長女、次女は家族と離れた東京で暮らし、とうとう家族はバラバラになってしまったのです。長年自分を責め続け自己肯定感が下がり、楽しいという感覚が分からなくなっていました。夫とのコミュニケーションが上手くゆかず、モヤモヤした気持ちで更年期障害に苦しみました。
これまでの自分を全部否定されたようで、苦しくて精神をどう保てばよいか分からなくなりました。「私のこれまでの人生はなんだったのだろう」「今まで子供たちの為に必死に頑張ってきたのに夫は分かってくれないんだ」「夫のために色々な努力をしてきたのに」という感情がグルグル頭に浮かんで眠れない日々が始まったのです。
お酒を飲んでやっと眠れても、2、3時間後に目覚めまたビールを飲んでしまう。朝起きると、失望感と共に涙が流れてくる。誰もいなければ、大声で泣き叫ぶ。何もする気持ちになれない。お腹が痛くてトイレに駆け込み体重が減少する。やっと始めた仕事にも集中できない。
もうだめかも、そう思いました。
自分を見つめなおし、抑え込んでいた本当の気持ちと向き合う事から始めた復活再生

失意の私を助けてくれたのは、長女と次女の言葉とサポート、そしてカウンセリングと心理学の学びでした。
精神科の眠剤は、私の場合は有効ではありませんでしたが、カウンセリングとイメージセラピーが私の心を安定に導き、実践していく中で安定的に睡眠の質と量が向上してゆきました。
婦人科で処方されたPMSの薬も効き目を実感できませんでしたが、自分の気持ちを大切にする事を学び、自分を肯定的に捉える事ができると精神も安定し、発作的に感情を大爆発させる事がなくなったのです。
完璧主義を手放し、どんな負の感情もそこにある事をあるがままに認める事で、楽しいと感じる気持ち、感謝の気持ちがわき、夫との関係が修復に向かいました。
以前は、夫は私の気持ちを分かってくれない、気持ちを分かって欲しいし、申し訳ないと反省して欲しいという気持ちが、私を支配していましたが、夫は私とは別の感じ方なのだと考えるようになりました。夫が私に示してくれていた愛情表現の数々を思い出すことができました。

私の場合は、長年の間、母親からの言葉による呪縛、自己肯定感の低下で苦しみましたが、同じように家族関係で苦しんでいる方が早く苦しみから解放されるようにとの思いから、カウンセラーとして活動しています。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
よろしければ、お試しカウンセリングをお申し込み下さい。
お待ちしています。
