機能不全家族で育ち、自分自身の結婚生活も機能不全に陥り離婚の危機を経験するも、カウンセリングを通じて乗り越えた経験がる。
心理学を学び、自分の感情をあるがままに受け止める事の大切さをしる。自然と湧いてきた感情が、例えどす黒くても悲観的でも弱音であっても、それを受け入れることで自分自身を取り戻し癒すことをお手伝いいたします。
幼少期
父は優しい人でした。私は父の事を好きだったと思いますが、そんな父の事を母は悪く言っていました。覚えているのは、父は田舎の農村出身で学がない。お人よしで人に騙されやすい。はっきりしない。と父自体を悪く言う事と、父方の祖母、叔父叔母の事も、陰で下品でセンスが無い。文化的じゃない。大嫌いだと言っていました。そして、このことは誰にも言ってはダメと言われて育ちました。
私が小学2年生の頃、父が経営していた会社が、経営難に陥っていました。母は、子供の前でも父を非難し、激しく追い詰めるような事を繰り返し言っていたのを今でも覚えています。母は私に金策という言葉を教えました。手形が落ちない、銀行が3時に閉まるなど、意味は分からない言葉を母から聞かされていました。母の父への態度は悪化し、無能と言っていたのを覚えています。当時の私は、それがショックというより日常でした。母も辛かったのだという事は、大人になった今は理解できます。
ある日、母と当時3歳の妹と母の運転で車の中にいました。その時に母に「一緒に死んで欲しい」と言われました。小学校3年生だった私は必死に泣きじゃくりながら、絶対に嫌だと訴え、まだ幼い妹にも必死に訴えかけて、その勢いに妹も泣き出し、二人で泣き叫びながら母に抵抗しました。母が実際に親子心中をどこまで現実的に考えていたのかはわかりませんが、車の排気口からガスを引き込めば苦しくないから、と言っていた事は忘れません。
母からは、その後何度か「首を吊って死のうとしたけど失敗した」などという事を聞かされ、その頃から、父は頼れない存在だから、私が母を守らなければならない、という思いを持つようになりました。
父の会社の倒産と両親の離婚
小3の時に父の会社は倒産し、父の実家のある大分県に夜逃げ。親戚のお世話になりながら、両親は仕事を見つけひっそり暮らし始めた。借金の関係で住民票の移動がままならないという事情で、しばらくの間小学校には通えませんでしたが、母の尽力で転入したものの、数か月休んでいたせいで勉強についてゆけず、やる気も起きませんでした。両親の不仲、お金が無いという事、急激な環境の変化の為、学校にはなじめず、厳しい担任の先生にもついてゆけず、友達もできず孤独な毎日でした。母に何かを相談するという事はありませんでした。母も慣れない土地で苦労しているのを感じていて、母には迷惑をかけたくないという思いからだったのかもしれません。その頃からは父に対する気持ちの変化があり、能天気な父を受け入れられなくなり母の味方をするようになりました。小4になる頃、母は私と妹を連れて実家に帰り、両親は離婚。悲しいという気持ちは起きず、早く大人になりたいと思っていました。
新たな生活
両親の離婚は私にとっては自然なものでした。むしろ父を責める母を見ないで済むことで背負っていた重荷を降ろす事が出来ました。ところが、母は新しい職場での交友関係から、家に帰らない事があり、その頃住んでいた木造風呂無しのアパートの1階でまだ幼い妹を寝かしつけ、母が心配で不安で朝まで眠れない夜を過ごすという不安定な精神状態にありました。そして、母子家庭という家庭環境は当時としては周りにあまり存在せず、クラスのみんなとは違う、普通の家の子じゃないという劣等感を抱える事になったのです。母は一生懸命に私たちの為に働いてくれている、だから感謝しなければならないという気持ちと、母に対する不満で常にジレンマを抱えていました。
両親の復縁
母は離婚している間は付き合っている人がいると言って合わせてくれる事がありました。私はその都度大人でいよう、母を祝福しようとしていました。しかしそれは、自分の気持ちを無視して無いものにする事だったのです。自分自身の感じた事よりも、正しいと思える事を優先する事を選んでいった結果、感情が鈍磨していきました。自分の感情がわからず、クラスメイトとの会話にうまく合わせる事が出来ない自分はおかしいいといつも思っていました。
ところがある時、母は一人で2人の子供を育てる事から、父と復縁して家族として生活する事を選んだのです。中2だった思春期の私は、父と再び同じ屋根の下で暮らす事に非常に抵抗感がありました。突然始まった家族4人の生活でしたが、母はまたしても父方の祖母と親戚の悪口を陰でいいはじめ、子供だった私はその影響を受けて育ちましち、おばあちゃんは汚いという事を父に言った事で、普段穏やかな父からお茶碗を投げられた事にショックを受けた事は忘れられません。
家族の日々
高校生になる頃には家族4人の生活にもなじみ、平和な生活を送っていました。父も母もお互いを大切にしていました。私自身は交友関係を築くことはできても、その関係を維持できない事への悩みを抱え、高校3年生で新しいクラスでは友人を作る事が出来ず孤独を感じていました。しかし受験というイベントに集中する事で、前向きにとらえ希望の短大に入学する事ができ、この事が、自信になり、自己効力感のようなものを味わった経験でした。
結婚
母のような母親にはなるまい、ちゃんとした家庭を作る。という信念を基に23歳という若さで結婚しました。早く家から出たかった。夫からの誠意の籠った愛情表現に、この人と結婚して幸せになろうと決意し、程なくして専業主婦の道を選んだ。
順調に見えた結婚生活だが
25歳で長女を出産。27歳で次女を出産。
第一回離婚危機
私自身が毒親に
自分の家族が機能不全になっているなんて
第二回離婚危機
復活再生